2020年11月9日月曜日

ジュエリーとは何だろう

 先日、ファッションの研究者であり、詩人の小野原教子(おのはら のりこ)さんの講演を拝聴した。

彼女はファッションを記号学の体系に照らし合わせ、ファッションの持つ意味を探る研究者であるのと同時に、創作活動としては美しい現代詩を綴る作家でもある。

新刊「人を着るということ/Mind that Clothes Body」(晃洋書房)では
こころは服を着る身体・・という身体と心と服の関係を読み手に問いかけるキーワード
を提示した。

誰でも(大抵は)服を着る。
そこに精神的な意味や社会的な立場、自分をより優位に見せるために、異性に好まれるために、欠点を隠すために、長所を際立てるために・・など着る意味を探れば際限なく、また身体を温度差や摩擦から護るため、清潔に保つため、という生物として足りない部分を補う機能という大切な役割が与えられている。

一方、ジュエリーはどうだろう。
講演の前日、サウナに入るために銭湯に行った。
家を出る前に、常時着けているブレスレット、指輪4本、ピアスを外した。
全てをひとまとめにして掌に乗せてみるとしっかり重みがある。
そしてこれらを外したとき、身軽になった爽快感があった。
私は果たして、何のためにこれらの金属を身に着けているのだろう?
誰に頼まれた訳でもなく。

もちろん機能的なジュエリーもある。冠婚葬祭の真珠、夜会服には必須とされる燦然と輝くハイジュエリー。しかし、それはごく僅かな場面だ。
服よりももっと機能性や必要度の低いジュエリー。
日本人はあまり重ねて着ける人は少ないけれど、海外ではそれこそ幾重にも重ねている人は沢山いる。
お守りや、先祖から受け継がれた品もモダンジュエリーと同列に身に着けている。
機能というよりも精神的な何かをジュエリーに託している感じは歴史の違いかもしれない。

小野原さんの言葉に戻る。
「詩を着ることは、服を脱ぐこと。私が立ち現れて」

そう、私にとってのジュエリーは「詩」なのかも知れない。
私が美しいと感じる小さなオブジェ。
肌とは遠い金属、石、真珠などの海のカルシウム。
それを身に着ける人間の不思議。
その異質なものを繋ぎ、気持ちよく身に着けるために技術をもってジュエリーを作る。
なんて人間らしい、不思議な行為なんだろう・・と思いながら
秋の深まる色鮮やかな樹々を見上げ、「美しさとは何か」について考えるのである。




11月の彫金教室

 2020年11月の彫金教室は 1日、15日に開講いたします。

コロナ対策として、換気と消毒に気を配りながらレッスンいたします。

見学は随時できますのでご興味のある方はぜひお越しください。

(ご見学の際は、マスクと手指の消毒をお願いいたします。)