2016年11月28日月曜日

ラヴェンダーの咲く庭で

          
齢をとると、諦めなきゃいけないことが増えてくると感じる。
ハイヒールを一日中履くこと、歯間ブラシを使わないと食事の後スッキリしないこと、徹夜はおろか睡眠不足なだけで次の日はアウト、黒い帽子も顔に影が射すから被らなくなったし、コンシーラーを使ってもシミは消えず、厚化粧になるかシミを隠すのを諦めるかというバランスを求められる。
先日、高校・大学時代の友人が集まったが、いきなり老眼鏡の品定めだ。
老化・・・人間という動物である以上、誰もが通る道とは知っていても、微妙に抗う50代だ。

映画「ラヴェンダーの咲く庭で」は切ない気持ちと同時に瑞々しく良い意味でも悪い意味でも変わらない人間の心模様を描いた良い作品だった。

ある海辺の田舎に住まう老姉妹が、海岸に打ち上げられた言葉が通じ合わない外国の若者を助けることから起こる急激な心の動き。
若者はポーランド人の音楽家で言葉は通じないが、老婦人たちと心を通わせていく。
妹の老婦人は一目見たときから恋心を若者に抱く。おそらく60代の彼女にとって初めての恋。
姉の方は、兵士だった夫がいたが若くして未亡人になった。しかし短い間とはいえ、愛する男性と生きた過去がある。そのことに、妹はこだわり続け、自分が手に入れられなかったキラキラしたもの、として心に封印をして暮らしていたが、その若者を見て、恋心が一気に芽吹くのだ。

原題は"Ladies in Lavender"   ラヴェンダーを纏った婦人たち・・・ラヴェンダーはクローゼットに入れる防虫剤の役目もあり、要するに樟脳の香りがするようなお堅い女性という事なのだと思う。
でも、人生に突然現れた美しい若者。
若者には想像もできないと思うけども、恋心に年齢は関係ないのだ。
そして、いくら「年を経た美しさ」とか言っても、それは人間としての総合力としての美しさであって
本能を突き動かす恋の対象は、圧倒的に若さが関係する。
艶やかな肌、コシのある髪、贅肉のない肢体、美しい首筋、力強い眼差し・・・・
それはいつまでも、黙って愛で続けることのできる崇高なオブジェだ。

名作「ベニスに死す」も美の化身のような少年に初老の男性が心奪われてゆくさまが、美しく哀しく描かれているが、この作品にも似通ったテーマがある。

結局、諦めなければいけないのだ。
恋心を隠し、「守る」とか「助ける」とか「応援する」という形でしか昇華できない。
恋を恋として全うする土俵にすら上がれなくなっていくのだ。
劇中「人生は不公平よ」と妹が呟き、ただ肯定する他ない姉がいる。
恋が、もっと早くに訪れていたなら、またはもっと自分が若かったならば。
人に恋するのは理屈ではない。そして年齢は関係ない。
でも、立場が違う。年齢の違うもの同士は違うプラットフォームに立って違う電車を待っている。
遠くから警笛を鳴らしあって、共鳴しあうことはあっても人生という同じ電車には乗れないのだ。
それでも、突然に恋は訪れる。

ところで、この映画を観たのは、フィギュアスケートでよく使われている楽曲がテーマ曲だから。
「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」
浅田真央さん、町田樹さん、そして今季は宇野昌磨さんがSPで演技している。
思えば、フィギュアスケートファンというのも決して手の届かない選手を国内外問わず応援に行ったりしてエネルギーは半端ではないものを感じる。
宇野昌磨さんのスケートは、人の心を揺らす魔力があってこの映画に出てくる若者のヴァイオリンのようでもある。
この曲を選んだ樋口コーチが映画を観て、そこまで深読みしたかはわからないけれども、美しい宇野選手と相まって、選手とファンの関係と同様のテーマだと思うのは勘ぐりすぎるのだろうか。

2016年11月14日月曜日

「6才のボクが大人になるまで」

だんだん肌寒くなってきた11月の午後、愛猫と一緒に2時間45分のDVDを観た。
映画館に行ったら満席で観れなかった映画「6才のボクが大人になるまで」
同じ俳優に12年間演じさせる半ばドキュメンタリーのような映画。とりわけ何が起きる訳ではないけれどある家族を軸に起こる物語を12年間追った、平凡で非凡な作品。

少年・少女が成長して18才=大人(アメリカではそうなんでしょうね。)になるまで、主に周りの大人、特に母親に翻弄されながら子供は育っていくしかない。
時に声を荒げたり、言葉少なく壁を作りながら。
イーサン ホーク演じる父親が良い味を出していて、離婚して子供から離れても常に見守り、言葉を与え、道筋を照らす存在であるのに救われる。
ミュージシャンという夢を追い求めていた父親は、新しい家族と共に生き、そのためにサラリーマンとなるのだが、そこに卑屈さや開き直りはなく、写真家を夢見る息子に対して、冷静でフラットな助言をする。
自己実現を果たし、価値ある仕事に就き、シングルマザーで二人の子供を育てた母親は、女性としての魅力や可能性もフルに発揮して新しい環境に子供を連れて行ったり逃げ出したりするのだが、私には同じ母親として逞しく、まぶしく、かわいらしく、悲しく映る。

終盤、母の涙に私は我が身を重ねて思わず落涙してしまったのだが、その後のテキサスの雲一つない広大な一本道を音楽を聴きながらほんの少しの荷物と共にピックアップトラックで町を出ていく息子の、軽やかな未来に胸が詰まる思いがした。そう、若者は振り返らず、親を置いて出ていく、その繰り返しをしなくてはならないのだ。たとえ母親の涙を見ても、振り返ってはいけない。

大学の寮に到着した夕方、知り合った友人たちと昔父親とキャンプした河に行く。
絶対的な自由、確信的な自分に対する自信、これから開ける未来に曇りはないと思える夕暮れ。
知り合いになった女子学生が言う。「チャンスをつかめ、ってよく人は言うけれど、私は違うと思う。チャンスが私たちを捕まえるのよ」

これは色んな解釈ができるのだと思うのだけれど、自尊心の確立や自己の核心を掴んだ人には向こうから好機はやってくるという巡りあわせを言っているのではないかと思う。
自分のスタイルが確立したらカチリと音を立てるようにチャンスはやってくる、自分が慌てて捕まえにいかなくても良いのだという、ある意味成熟した教訓のような言葉で締めくくられる。

先日、湖に架かる大きな虹を見た。
雨が降っているのに陽が差したら私は必ず虹を探す。
誰も、その豊かな虹を気にも留めない。
ある条件が揃えば虹が見れる、その心積もりが私に沢山の虹を見せてきた。
ふと顔をあげて、そこに虹があったら美しいと感じる人は多いだろう。
なぜ虹を見たいのか、それには理屈はないけれど
私はいつも虹を見る準備をしているから 虹が私を見つけるのかもしれない。