2013年2月27日水曜日

アンティーク&カフェ 「ali」 / 神戸市・中央区

 
 
この度、ご縁がありBOCCAのジュエリーをお取扱いしていただけることになりました
神戸市の「ali」 さま。私はこちらのお店に来るたび インスピレーションを頂き、またお店の方との 好きなモノを挟んで繰り広げられるツーカーな会話を楽しむファンであったのですが、本当に有難いご縁で この素敵な空間にBOCCAのジュエリーを置かせて頂くことになりました。
 
様々な年代、様式、国境を超えて 神戸港の汽笛が聞こえるビルの3階に漂着した美しいものたちが集う空間 「ali」
カラリと乾いた空気感に潜む ちょっとした毒、懐かしさと同時に未来への指針も感じる絶対的な美のフォルム、スタイリッシュなのに牧歌的で軽妙洒脱なエッセンスが心地よく刺激的な「ali」さん。
 
この素敵なお店をご紹介できるのを とても光栄に思います。
JR元町駅から8分、地下鉄海岸線/みなと元町駅1分、中突堤筋ロータリーを囲む
宮本ビル3階です。是非 お越しくださいませ。
 
        
      
     ali
     神戸市中央区海岸通4丁目1-11 宮本ビル3階北
                                                  tel/fax  078-371-2778
                       12:30~20:00
                                                             木曜定休
             
                                      
 
 
 
                     
 
 
 
 
 


2013年2月22日金曜日

その本心がたとえ美しくても

 
 
自分の言葉を生の形で相手にぶつけなくなったのは いつの頃からだろう?
声のトーンを明るくしてみたり 笑い声を含ませたり。素が出やすい手紙やメールは真夜中には書かない、結論は曖昧にする、ほんの少しの含みや、相手に逃げ場を残しておく・・・これは 大人になったら身に付く知恵なのか、その知恵は相手を思う気持ちなのか自分を守る盾なのか、あるいは両方?
 
 今 話題のTVドラマ「最高の離婚」は久々にハマるドラマ。本心で思っている事と目の前に起こる対人関係をやりすごす術が微妙にずれていて、しかもひょんな事から本心が露呈してしまう。昨日は離婚した元夫の部屋を出る不器用な妻が 最後に苦手な掃除や手料理を心をこめて行い テーブルに花を飾り 置手紙を書く。その手紙には別れるに至るまでの気持ちや自分の性格の問題点、そして「いつもあなたのことを盗み見するのが好きだった」という同じ時を過ごした男女にしか分からない愛情一杯の眼差しが書き綴られていた。
しかし、別れの手紙は書き終わった瞬間破られ、スーパーのチラシの裏にマジックで「夕飯は冷蔵庫の中、元妻」という伝言にとって変わられた。
ここで、私は涙がツツツ~~。この折り合いのつけ方が まさに大人のやせ我慢。
10代の子だったら思いの丈をぶつけたりできるのに 自分という複雑な存在に気づいた大人にはやせ我慢をすることで相手を思いやったり自分を守ったりする。
その微妙な他者との距離感のなかで生きていく為に 本心は隠されるのだ。隠された本心がたとえ美しいものであっても。
明日 アマゾンから2冊の本が届く。平野啓一郎「私とは何か---個人から分人へ」
「空白を満たしなさい」この2冊の「分人」という概念は私も5年前から持っていてそれを平野啓一郎がスッキリと文章化してくれているらしい。有難く拝読したい。

2013年2月16日土曜日

珊瑚のペンダント



                                              
 
 珊瑚のペンダント、この品を作るまでには長い時間がかかりました。
15年位まえ、フィレンツェの街角を紹介した本のスナップ写真に、太いシルクの紐に枝珊瑚をそのままつけたペンダントをしている50代のマダムが載っていました。
髪は蜂蜜のようなブロンド、陽に焼けた腕、笑顔をより魅力的にみせている目じりの皺、ベージュの濃淡でシックにまとめた深いVネックセータとボックススカート、そして珊瑚の暖かい朱色・・・その写真はそのままずっと心に焼けつき いつか大人が身に着けてサマになる 迫力と可愛さがあるペンタントを作りたいと願ってきました。
 
この珊瑚のペンダントを身に着けてくれる女性は みな心暖かで女性としての気構えが真っ直ぐな女性。 珊瑚と惹かれあう何かは、あの遠い日のイタリアの女性とも繋がる不思議を感じるのです。


2013年2月11日月曜日

歌姫・森麻季

森 麻季さんと京都市交響楽団によるコンサートを聴きに行きました。世界最高レベルのコロラトゥーラソプラノ・・・その透明感と隅々にまでコントロールされた技術に圧倒されました!そしてあの美しさ・・・まさに歌姫というしか言いようのない歌姫ぶりでした。
京都コンサートホールはサントリーホールと同じく360度舞台。チケットを取ったのがギリギリだったので3階席のオケの後ろということで、本当は最悪の座席だったのですが それでも麻季さんの声はオケに負けず言葉の端々まで表現されていました。
プッチーニの「私が街を歩くとき」ロッシーニの「今の歌声は心に響く」なんかは 技術といい 演技力といい森麻季の18番、「ブラーボ!!」と叫ぶ声と一緒に私が正面前列に座っていたら「ヒューーー」ってしてしまいそう!クラッシックの人はほんとお行儀が宜しいからしないけど、ほんと「ヒューヒュー」もんでした。
 
今回の座席は 指揮者の顔や打楽器や金管の様子がよく見えて見方によっては面白い席。でも歌は断然正面がいいよね。指揮者の現田茂夫さんも麻季さんと演奏するのが楽しくて仕方ない様子がこちらにも伝わってきました。今度はオペラを観に行きたいな。

2013年2月10日日曜日

気になる手元



                    
        
 仕事がらだけじゃなく、私は人の手元や胸元がとても気になる。特に手はその人を語る気がして 私自身がうっかりガサガサだったり爪がボロボロだったらササクレだった気持ちになってしまう。現実には手を酷使する仕事をしているので ツメはキッパリ切り揃えてあるし 金属を触るからヤワヤワとした肌ではなくてどことなく勝気な質感、女性らしさからは遠い残念な手になっている。
まさかネイルサロンがこんなにも市民権を得るようになるとは意外だったけど、ネイルをやっているひと(この言い回しも近年のもんだよね)とやっていない人のあいだには女の棲み分けがなされているように思う。
恋をしたら まずネイル。ツメの汚い恋愛スターターはあり得ない・・というのが私の持論。白いパールのマニキュアをしていたら、その白が白すぎて子供っぽく感じて 微妙に牡蠣色のくすんだ色味のパールを買いに走った・・・そんな知人がいたっけ。手ほど自分の身体のパーツで自分自身が目にする回数の多い所はないので その時々の自分の心模様と密接な関係にある。
 
過剰にデコラティブなネイルをする人は 自分の事が大好きな印象があるし、マスタードやターコイズブルーのネイルは抑えきれない個性の象徴のような印象がある。たとえパツンパツンに切り揃えてある爪でも 全体がしっとりと湿度のある手に仕上がっていればその人の幸せな感じが伝わり 見ている方もゆったりとした気分になる。
 
 
 

2013年2月6日水曜日

同じ街の同じ道で




                              
高校生の時、NYに憧れていた。80年代初めのNYはニューペインティングの聖地、古典的なデッサンや色彩構成に疑問をもっていた生意気盛りの私にとってNYこそが自由でアートな街だと思っていた。
でも、周りを見渡せば 新興住宅地の家並み、ところどころに田んぼもあり、牛蛙の眠たげな「ごぉーーーっ ごぉーーーっ」という鳴き声の中で、NYに思いを馳せるのは余りにも無理があった。
当時の私たちは 深夜に放送されるMTVにくぎ付け。マドンナやマイケル・ジャクソン シンディー・ローパー デビッド・ボウイなどなどの華麗なる面々のミュージックビデオを録画も出来ないから リアルタイムで見入って次の日の学校で 興奮気味で話す毎日だったように思う。MTVにうつる 壁に描かれた落書きは、電信柱に「世界が平和でありますように」なんて書かれた町に住む高校生には 「自分はどうしてこんな所にいるんだろう」という不満をフツフツとたぎらす起爆剤になるに充分だった。
 
高2の夏休み、焼けつくような陽射しの中をカメラ片手に御堂筋を歩き回った。
御堂筋が私の中では一番NYに近い場所だったからだ。
東京育ちの私は 幼いころ親と一緒に銀座や大手町に出かけた。身長100㎝前後の私には、ビルの壁面に堂々と光る真鍮の消火栓が視界に程よく入り、強い印象を受けていた。その消火栓はNYのビル群の消火栓とつながり、描きたくなったのだ。
 
消火栓は大理石や御影石の古い大きなビルの横に シックに光っていた。
改めて見てみると 様々なバリエーションがあり趣のある消火栓は魅力に溢れていた。大きく写真を焼いて 色分解をしてリアルにパネルに描くと ギラリと光る反射が美しく 少しNYに近づいた気持ちになった。
 
あれから30年近い時間が流れ、この数年で大阪にある古いビルは次々と姿を消した。消火栓も マットなステンレス製のスマートなものばかりだ。
昨晩、一人あてもなく御堂筋を歩いた。
 人生では沢山の事があり、喜びも切なさも責任も成長もあった筈なのに
この あてもなく何かに焦がれる感じ、満たされない思いと 満たしたい欲求に背中を押されて ただ 歩く気持ちは 17歳の自分と何一つ変わっていない。
30年後 同じ街を一人歩く自分を想像すらしていなかった夏の日を思うと 人の成長や教養は 時の速さに比べてなんて緩やかなことかと思う。
そして今から30年後、また一人歩く自分に出会えるだろうか?その時も 今と変わらない焦燥感を持っていられるのだろうか?
 
 

2013年2月2日土曜日

さよならの続き

 
 
 
友人がtwitterをするにあたって、今まで持っていたアカウントとは別にもう一つ取る、と言う。理由は「昔の彼に今の生活を覗かれたくない」
私はFBはしていないけど、FB上で元の恋人同志の再会が頻繁にあるのはよくある事だしtwitterだって探そうと思えば出来ないこともない。FBは認証しなければ良いというものの、「まだコダワッテルの?」と自分の成熟度を測られるのが嫌でなんとなく認証、っていう人も聞く。いい女、大人の女と思われたいっていう気持ちは複雑で厄介。
 
 
連絡を取り合わなくなったら「死んだも一緒」だったのに、今はその後が付いて回る。
自分は追跡しないけど、もしかしてずっとフォローされるかも知れない。
「別れてもずっと忘れない、どこかで応援するね」なんていう別れは実際には会うことはない・・という事が前提だったのに、その「どこか」がとても具体的になった。別れるには抜き差しならない理由があり、キチンと別れるには伏線を張るのに準備周到なエネルギーも費やすのに、この不確かな気持ち悪さはストレスリストの上位にランクインされる気がする。
恋愛関係になる、ということがゆくゆくの不自由に繋がるというリスク・・・恋愛に臆病になってしまう一因になっても不思議じゃない。
 
お別れはブロックで、というtwitterのルールもあるそうだけど、実際の恋愛にも適応できると良いのにね。
私みたいにうっかり「円筒分水が好き」とツイしてしまったら、あっという間に絞り込まれてしまう。折角のマニアックな発言もゆるされるtwitterで不自由な思いをするのは嫌だから、お別れはできるだけ印象薄く。 色とりどりの紙テープがヒラヒラ舞う 出航のお別れくらいの「潔さ」を手に入れるのは宝くじで1万円当てるくらいの難易度かも知れないわね。