2014年12月15日月曜日

小さな分身を探して

朝、手に取る服には様々な可能性があって、頭の中はフル稼働してその一着を選び出すのではないだろうか。
今日の気温、仕事の内容、遊びの内容、会う人とのバランス、自分をどう演出するか、鏡の中のお肌の調子、恋が始まる可能性、靴とのバランス、その日はどれだけ歩くか、ぜひ持ちたいバッグに似合うか、車を運転するかetc,etc・・

服を選ぶのは生活する上での重要なミッションである。
社会生活を送るうえで、自分らしく、自分の立場を表現する、何より身体を護るという役目が備わっているからだ。

しかし、ジュエリーはどうだろう。
フォーマルなパーティー以外、身に着けていなくても、何一つ問題はない。
むしろ、華美なジュエリーは人に威圧感を与えたり、場所や着け方によっては不快感を与えてしまう存在だったりする。

モードとしてのアクセサリーはバッグや靴を選ぶ感覚で良いと思うし、その日の服のバランスで楽しむのは正解だと思う。

しかし服の付属品ではない、独立したジュエリーには もう少し立ち入った役割がある。
それは身に着けなくても何ら問題がない小さな装飾品であるがゆえに際立つ力、
その人の「自分はこのような物が美しいと思う」という個人的な美意識を少しだけ表明する小さな扉としての役割である。

ジュエリーの定義はそれぞれだが、私は時間を味方に持ち、その人の内面に関わる装身具がジュエリーだと考えている。
一般的な定義とは少し違うかも知れないけれども、値段や素材だけでは計れない、かけがえのない個人的な「宝物」であればジュエリーと呼びたいのである。

幻想的でクールでかつ官能的な作品を生み出す版画家のY嬢の指にはいつも
極細の金色の環に、半円形の真珠貝が小さくセットされたリングがはめられている。
真珠貝は飴色がかったミルク色で、ポトリと蠟を落としたようなその指環は、
モノトーンの服を纏った彼女の繊細さや、密やかに耳を澄ます夜のような妖艶な版画の世界と見事に合わさり、指環含めてY嬢そのものなのである。
真珠貝は宝飾の素材ではないのだが、それはジュエリーとしか呼びようがない。
その指環がポツンと机に置かれていたら、今のY嬢の体温、声、存在感全ての分身に思えるに違いない。

私も20歳くらいから、分身のようなジュエリーを常に身に着けてきた。
パリの骨董屋で出会った紺色と水色の水牛の角を象嵌したシルバーリングを、
ボリュームある銀に縁がゴールドの楕円で枠を作ったピンク珊瑚の指環、初めて彫金で作ったイニシャル入りの指環、学生時代の私を知る人は 大きなアンティークのメダリヨンと呼ばれるチャームを革紐でペンダントにした姿を今も覚えているという。
この秋からは緩やかな形のイエローゴールドの指環を左手親指に着けている。ルネサンス期の肖像画にも見られる指環の着け方なのだが、モードっぽい匂いと大人なのに少しだけヤンチャな気分なのが今の私だ。

twitterでお付き合いさせて頂いている女性が昨日、「何かピンクの物をもってみたい」という呟きをされていた。「人生でピンクのものと縁がなくアクセサリーを身に着ける習慣がないけれども、ピンクが気になる」という主旨だった。
お会いしたことはないけれども、身近な自然の移ろいに敏感で、造形美のある構成の写真を撮られ、音楽に造詣が深くて、美しいものの本質を探ろうとする、そんな若い女性という印象を持っている。自身の美意識を大切にされていて、直観的な人かな、とも思っているので「ピンク」という言葉の中には色んな意味があるのだろうな・・と感じた。自然の中でカメラを構える姿が、たぶんカッコよく魅力的な彼女に似合うピンクのジュエリーは何だろう、と勝手に想像させて頂いた。
もし、ピアスホールがあるならば、ピンク色に輝く3mmの極小和玉真珠、もしくは8.5mmのたっぷりした和玉真珠のピアス。質は特上のものを。毎日、歯を磨いて髪形を整えるように、肌の一部としてピンクパールのピアスを着ける。仕事にも自然の中にもパールピアスは寄り添ってくれる存在。和玉の真珠の中にはハッキリとピンク色が出るものがあり、しかも肌に着けると馴染みよく、存在感があるのに自然に見えます。
指環なら、ピンクゴールド。ボリューム感のあるものを小指に着けてもカッコイイし、
繊細でシンプルな環をスッキリと身に着けるのも心地良いと思います。
今まで、アクセサリーを身に着ける習慣がない人には、先ず気持ちが通じ合う相棒のようなジュエリーが良いかな・・と思う。それは、きっとその人らしさとも通じつつ、魅力を引き出す存在。自分が身に着けることに居心地の良さを感じる「これって私らしい」と思えるものを根気よく探すことで、自分の願うものや新しく芽生えつつある方向性が見えてくるような気がします。彼女なら、きっとそんな相棒を見つけて分身にしていけると感じています。


さて、分身であるジュエリーは、本人の変化でその役目を終え、静かにジュエリーボックスに収まることになるのですが、それはそれで美しい儀式。
ジュエリーは受け継がれるもの・・・遺品として財産価値としてという意味だけでなく、人間の成長によって移り変わってゆく性質があると思う。

移り変わって行っても、時の洗礼を受け止められるジュエリーは長く付き合えるし、誰かに譲り渡すこともできる。夜も昼も共に過ごした分身は、箱を開けると優しく迎え入れてくれてその時の空気も一緒に運んでくれる。まるで、ある時期の自分が小さくなって時と共に眠っているように。
ジュエリーという分身を探す旅路は、今とほんの少し先の自分と出会う旅でもあるのです。
                              
                                                  
                                                      
 

           




2014年12月13日土曜日

古いものたちと私④~青いオウムの店

自分の城を持った時、その内装で自分の器が分かる場合がある。
私が19歳のとき親元を離れ下宿した部屋は和室の4.5畳。内装云々よりも
いかに生活感を消し、スッキリ住まうかにポイントが絞られた。
当時皆が持っていたジッパー式のビニールの衣装架けも、コタツもちゃぶ台も持ち込まなかった。押入れを改装し、直方体のユニット家具と白く塗装した板で低い位置で机や食器棚を組み、高校の美術室で廃棄処分されていた古い大きな額縁に鏡を入れ、壁には点描で描かれた全紙サイズの並木道の風景画を架けた。
しかし照明も和風、壁も和風・・・しかも大家さんが一階に住まう間借りだったため大がかりな改装はできない。今ある持ち札でやりくりしてベストを尽くす堅実な作戦に出た。

19歳の女子大生にしては妙にストイックな部屋で、その無機質な雰囲気が友人達の苦笑いのネタになった。
気に入らないものは目に入らないようにしたい・・・しかし徹底できない中途半端さが笑いのツボだった。従妹から借り受けた冷蔵庫がプチトマトのように真っ赤だったこと、私は無彩色のカーペットにしたかったのに、「これではあまりに寒々しい」と母親がグレイシュなピンク色を強く推してきたので抗えずに屈したことが目ざとい友人達には可笑しかったようだ。「頑張ってるのに、残念」という感じが、常識的な家庭に育った証のようでもあった。

しかし、私の美意識の脆弱さをあざ笑うかのような部屋に住む住人と出会うことで、
時を経て残り続けているものとの新しい関係を築くことを教えて貰うことになる。

その部屋は京都の北東の北白川と呼ばれる古くから学者や文化人が住まう地域の小高い丘の上にあった。銀閣寺にほど近く、「哲学の道」と呼ばれる小川が流れる散歩道もある、明治の文豪小説に出てきそうな気配を今なお残しているゆったりした町である。
北白川別当町というバス停から急こう配の坂道を10分ほど息を切らせながら登る道は、小枝を空いっぱいに広げた雑木に囲まれ小鳥の声や、登って行くほどに足元かから京都の町のざわめきが重低音となって聴こえ、白い砂が川床にさらさらと流れる小さな川や橋があるという別荘地のような雰囲気の町に件の家は建っていた。
二階建ての一軒家、大家さんは平地に引っ越し、そこを4人の学生に貸している下宿家であった。
その二階の京間10畳の部屋(関東でいうと12畳くらいに相当する)に 付き合っていたS君が暮らしていた。

昭和40年代に建てられたその家は土地の利を生かした設計で、ゆったりとした造りの趣のある家であった。二階の部屋は端から端まで木製建具の窓になっており、眼下には銀閣寺の山の麓から流れるように続く京都市街はもちろん、晴れた日には遠くに嵐山の山並みまで見渡せた。冬の夜は揺れるように煌めく町の灯りが見えたのだが、その景色を楽しむには不都合なことがあった。
電車の窓のようなピクチャーウインドゥであったにも関わらず、なぜだかその窓は細かい草木模様がレリーフになった磨りガラスだったのだ。
気候の良い時期は窓を開けたら良かったのだが、それでも半分は景色が隠れてしまう。この残念な状況を、生活や生き方というものに独創的なものを追求するS君は我慢してはいなかった。
あるとき、窓ガラスは全て外され、透明ガラスに代わっていた。いや、代わっているかに見えた。よくよく見ると透明なのはガラスではなく、厚手の机に敷くビニールであった。学生が大家さんの窓ガラスを取り換えるだけの資金はなく、しかし美しい景色を楽しみたいという切ない思いが、少したわんで見える模造ガラス窓にさせたのだ。
確かに部屋の風景は一変したが、寒さ暑さの厳しい東南アジアの屋台さながらの半戸外のような部屋になった。

壁は濃茶の木目調の化粧版だったが、それは引っ越し前に全面を白い壁紙にしていた。
改装はできないので押しピンで一枚ずつ天井まで丁寧に貼ったが、隙間なく継ぎ目を見せないように貼るのには苦心したようだ。
そんな部屋には、キャンドルや間接照明が取り入れられ、常に何かしらの模様替えがなされていた。

京都市内を流れる鴨川の東の通り、川端丸太町に目の覚めるようなブルーの日除け屋根があるこじんまりしたお店がある。
「ブルー・パロット」というその店の前には、ニス引きメンテナンスを受けている古い家具がズラリと並んで日光浴をしていた。書棚・椅子・立派な脚の丸机・ジャバラで蓋のできる深緑のレザーが貼ったイギリス製の両袖机・・・木の密度を感じるずっしりと重い家具が、洗浄され、必要に応じてトノコで丁寧にパテ埋めされ、柔らかなチョコレート色のニスを塗られて蘇っていく様は、古傷を癒しに湯治場に集まる鷺のようであった。
川端丸太町は華やかな河原町側と比べて、古い町屋が並び古本屋さんや豆腐屋さんなどがある生活臭のある地域で、そのまま東に向かうと京都市美術館や平安神宮のある岡崎地区に出る。鴨川に流れ出る明治時代からの琵琶湖疏水があり、夷川発電所の古めかしい煉瓦造りの建物など、散歩コースとして変化に富んだ景色が楽しめる。
その散歩コースに必ず立ち寄るようになったその「青いオウムの店」は歩道に溢れる家具の他、二階建ての狭い店内には、ジグソーパズルのように家具が積まれており和と洋が混在した世界が展開されていた。京都のいわば古い洋館にある屋根裏部屋と言ったらいいだろうか。欧州帰りの先代が持ち帰ったデスクとか、家具職人にデザインを指示してつくらせた象嵌と鏡がはめ込まれた玄関の大きなコート架けなど想像力掻き立てられる品々が、かなりの回転率で出入りしていたため、飽きることがなかったのだ。しかも歩道に出ている品は、学生にも購入可能な価格帯だった。薄い引き出しに真鍮のネームプレートがついた書類棚など5000円くらいからあったので、アンティークと呼ばれる品が一気に身近な物として存在した。

私は狭い部屋にこのようなニス引きの家具を入れる生活は放棄していたので、憧れを持って見ていただけだったが、S君は常にチェックしながら部屋に招き入れる古い物を吟味していた。
そんなある日、とうとう彼の眼鏡に叶った品が部屋に到着した。150cmくらいの部分的にガラスの扉がついた本棚である。その棚は隠す部分とオープンにしている部分のバランスが良く、嫌味のない木の厚みが心地よかった。早速ベッドの頭側に設置して、読みかけの本、コップ、夢日記と筆記具、オーディオ類、カセットなど細々としたものを美しく収納していった。
そして、棚板の一部に取り付けた照明器具が一層その本棚を魅力的にした。
それは、北野天満宮で月に一度開かれる天神さんという古物市で見つけた
アメリカ製のクランプ式デスクスタンドだった。真鍮で鈍く光るアームには人間の腕の関節のような仕組みがあり、ゆで卵の飾り切りのようなギザギザで噛みあっていた。アームの中は空洞でその中を線がスッキリと入り、小気味のよい音を立てるスイッチも今まで見たことのないカッコよさのボリューム感であったが、最大の難点は電気が点かないことであった。
今では、海外照明器具のパーツ専門店もそここにあるし、ネットでも入手できるのだが、1985年当時は東京か米軍基地のある町くらいにしかなかったので、その壊れたライトは驚くべき安さで入手できたのだ。
 そのライトが点くまで数か月かかった記憶があるが、あまり昔のことで詳細は覚えていない。確かコードや部品が入った小包を見た気がするので、苦心の末に部品を調達したのではないかと思う。
切り出した真鍮の質感が美しいライトが本棚に設置されて読書スタンドになった時、用と美がピタリと音を立てて合わさったような快感を味わった。

その「青いオウムの店」は現在2店舗になって今も京都で営業している。
時代の要望に応え、陶器や小物も増え、沢山の人に愛されて育てられて来たのだろう。
東寺の弘法さん、北野の天神さん、寺町や祇園・縄手通りの骨董街、京都にはいくらでも古い道具に行き当たる環境がある。
しかし、そのお店が違ったのは、古いものを今使えるるように微調整したセンスだと思う。
名前も店構えも若い人に受け入れ易いオープンな雰囲気にして、新しい骨董との付き合いかたを提案していた。
大きな店になって、間口が拡がった分、その店のスタイリッシュさは薄まってしまったが、その雰囲気を継承した個人店舗は数多くみられる。

S君は「将来、アンティークの店をやろうかな」と口にするほど入れ込んでいたけれども、今は全く違う道に進んでいるようだ。
若い男性店主の良い雰囲気の古道具屋を訪れると、ふと彼のことを思い出す。
独特の感性があった人だったから、もしそんな店を作っていたらどんなセレクトをしたのだろう、見たかったな、と思うのだ。
他にも、手に入れたテーブルなどの思い出もあるが、一つ一つがこれほどに鮮明なのは、素地の良さがある年月を経たものが、生きている今と調和した感動があったからだと思う。
身の周りを整えることに感動があると、モノを超えて、その時の空気感までもが記憶されて色あせない思い出になるようだ。