2014年12月13日土曜日

古いものたちと私④~青いオウムの店

自分の城を持った時、その内装で自分の器が分かる場合がある。
私が19歳のとき親元を離れ下宿した部屋は和室の4.5畳。内装云々よりも
いかに生活感を消し、スッキリ住まうかにポイントが絞られた。
当時皆が持っていたジッパー式のビニールの衣装架けも、コタツもちゃぶ台も持ち込まなかった。押入れを改装し、直方体のユニット家具と白く塗装した板で低い位置で机や食器棚を組み、高校の美術室で廃棄処分されていた古い大きな額縁に鏡を入れ、壁には点描で描かれた全紙サイズの並木道の風景画を架けた。
しかし照明も和風、壁も和風・・・しかも大家さんが一階に住まう間借りだったため大がかりな改装はできない。今ある持ち札でやりくりしてベストを尽くす堅実な作戦に出た。

19歳の女子大生にしては妙にストイックな部屋で、その無機質な雰囲気が友人達の苦笑いのネタになった。
気に入らないものは目に入らないようにしたい・・・しかし徹底できない中途半端さが笑いのツボだった。従妹から借り受けた冷蔵庫がプチトマトのように真っ赤だったこと、私は無彩色のカーペットにしたかったのに、「これではあまりに寒々しい」と母親がグレイシュなピンク色を強く推してきたので抗えずに屈したことが目ざとい友人達には可笑しかったようだ。「頑張ってるのに、残念」という感じが、常識的な家庭に育った証のようでもあった。

しかし、私の美意識の脆弱さをあざ笑うかのような部屋に住む住人と出会うことで、
時を経て残り続けているものとの新しい関係を築くことを教えて貰うことになる。

その部屋は京都の北東の北白川と呼ばれる古くから学者や文化人が住まう地域の小高い丘の上にあった。銀閣寺にほど近く、「哲学の道」と呼ばれる小川が流れる散歩道もある、明治の文豪小説に出てきそうな気配を今なお残しているゆったりした町である。
北白川別当町というバス停から急こう配の坂道を10分ほど息を切らせながら登る道は、小枝を空いっぱいに広げた雑木に囲まれ小鳥の声や、登って行くほどに足元かから京都の町のざわめきが重低音となって聴こえ、白い砂が川床にさらさらと流れる小さな川や橋があるという別荘地のような雰囲気の町に件の家は建っていた。
二階建ての一軒家、大家さんは平地に引っ越し、そこを4人の学生に貸している下宿家であった。
その二階の京間10畳の部屋(関東でいうと12畳くらいに相当する)に 付き合っていたS君が暮らしていた。

昭和40年代に建てられたその家は土地の利を生かした設計で、ゆったりとした造りの趣のある家であった。二階の部屋は端から端まで木製建具の窓になっており、眼下には銀閣寺の山の麓から流れるように続く京都市街はもちろん、晴れた日には遠くに嵐山の山並みまで見渡せた。冬の夜は揺れるように煌めく町の灯りが見えたのだが、その景色を楽しむには不都合なことがあった。
電車の窓のようなピクチャーウインドゥであったにも関わらず、なぜだかその窓は細かい草木模様がレリーフになった磨りガラスだったのだ。
気候の良い時期は窓を開けたら良かったのだが、それでも半分は景色が隠れてしまう。この残念な状況を、生活や生き方というものに独創的なものを追求するS君は我慢してはいなかった。
あるとき、窓ガラスは全て外され、透明ガラスに代わっていた。いや、代わっているかに見えた。よくよく見ると透明なのはガラスではなく、厚手の机に敷くビニールであった。学生が大家さんの窓ガラスを取り換えるだけの資金はなく、しかし美しい景色を楽しみたいという切ない思いが、少したわんで見える模造ガラス窓にさせたのだ。
確かに部屋の風景は一変したが、寒さ暑さの厳しい東南アジアの屋台さながらの半戸外のような部屋になった。

壁は濃茶の木目調の化粧版だったが、それは引っ越し前に全面を白い壁紙にしていた。
改装はできないので押しピンで一枚ずつ天井まで丁寧に貼ったが、隙間なく継ぎ目を見せないように貼るのには苦心したようだ。
そんな部屋には、キャンドルや間接照明が取り入れられ、常に何かしらの模様替えがなされていた。

京都市内を流れる鴨川の東の通り、川端丸太町に目の覚めるようなブルーの日除け屋根があるこじんまりしたお店がある。
「ブルー・パロット」というその店の前には、ニス引きメンテナンスを受けている古い家具がズラリと並んで日光浴をしていた。書棚・椅子・立派な脚の丸机・ジャバラで蓋のできる深緑のレザーが貼ったイギリス製の両袖机・・・木の密度を感じるずっしりと重い家具が、洗浄され、必要に応じてトノコで丁寧にパテ埋めされ、柔らかなチョコレート色のニスを塗られて蘇っていく様は、古傷を癒しに湯治場に集まる鷺のようであった。
川端丸太町は華やかな河原町側と比べて、古い町屋が並び古本屋さんや豆腐屋さんなどがある生活臭のある地域で、そのまま東に向かうと京都市美術館や平安神宮のある岡崎地区に出る。鴨川に流れ出る明治時代からの琵琶湖疏水があり、夷川発電所の古めかしい煉瓦造りの建物など、散歩コースとして変化に富んだ景色が楽しめる。
その散歩コースに必ず立ち寄るようになったその「青いオウムの店」は歩道に溢れる家具の他、二階建ての狭い店内には、ジグソーパズルのように家具が積まれており和と洋が混在した世界が展開されていた。京都のいわば古い洋館にある屋根裏部屋と言ったらいいだろうか。欧州帰りの先代が持ち帰ったデスクとか、家具職人にデザインを指示してつくらせた象嵌と鏡がはめ込まれた玄関の大きなコート架けなど想像力掻き立てられる品々が、かなりの回転率で出入りしていたため、飽きることがなかったのだ。しかも歩道に出ている品は、学生にも購入可能な価格帯だった。薄い引き出しに真鍮のネームプレートがついた書類棚など5000円くらいからあったので、アンティークと呼ばれる品が一気に身近な物として存在した。

私は狭い部屋にこのようなニス引きの家具を入れる生活は放棄していたので、憧れを持って見ていただけだったが、S君は常にチェックしながら部屋に招き入れる古い物を吟味していた。
そんなある日、とうとう彼の眼鏡に叶った品が部屋に到着した。150cmくらいの部分的にガラスの扉がついた本棚である。その棚は隠す部分とオープンにしている部分のバランスが良く、嫌味のない木の厚みが心地よかった。早速ベッドの頭側に設置して、読みかけの本、コップ、夢日記と筆記具、オーディオ類、カセットなど細々としたものを美しく収納していった。
そして、棚板の一部に取り付けた照明器具が一層その本棚を魅力的にした。
それは、北野天満宮で月に一度開かれる天神さんという古物市で見つけた
アメリカ製のクランプ式デスクスタンドだった。真鍮で鈍く光るアームには人間の腕の関節のような仕組みがあり、ゆで卵の飾り切りのようなギザギザで噛みあっていた。アームの中は空洞でその中を線がスッキリと入り、小気味のよい音を立てるスイッチも今まで見たことのないカッコよさのボリューム感であったが、最大の難点は電気が点かないことであった。
今では、海外照明器具のパーツ専門店もそここにあるし、ネットでも入手できるのだが、1985年当時は東京か米軍基地のある町くらいにしかなかったので、その壊れたライトは驚くべき安さで入手できたのだ。
 そのライトが点くまで数か月かかった記憶があるが、あまり昔のことで詳細は覚えていない。確かコードや部品が入った小包を見た気がするので、苦心の末に部品を調達したのではないかと思う。
切り出した真鍮の質感が美しいライトが本棚に設置されて読書スタンドになった時、用と美がピタリと音を立てて合わさったような快感を味わった。

その「青いオウムの店」は現在2店舗になって今も京都で営業している。
時代の要望に応え、陶器や小物も増え、沢山の人に愛されて育てられて来たのだろう。
東寺の弘法さん、北野の天神さん、寺町や祇園・縄手通りの骨董街、京都にはいくらでも古い道具に行き当たる環境がある。
しかし、そのお店が違ったのは、古いものを今使えるるように微調整したセンスだと思う。
名前も店構えも若い人に受け入れ易いオープンな雰囲気にして、新しい骨董との付き合いかたを提案していた。
大きな店になって、間口が拡がった分、その店のスタイリッシュさは薄まってしまったが、その雰囲気を継承した個人店舗は数多くみられる。

S君は「将来、アンティークの店をやろうかな」と口にするほど入れ込んでいたけれども、今は全く違う道に進んでいるようだ。
若い男性店主の良い雰囲気の古道具屋を訪れると、ふと彼のことを思い出す。
独特の感性があった人だったから、もしそんな店を作っていたらどんなセレクトをしたのだろう、見たかったな、と思うのだ。
他にも、手に入れたテーブルなどの思い出もあるが、一つ一つがこれほどに鮮明なのは、素地の良さがある年月を経たものが、生きている今と調和した感動があったからだと思う。
身の周りを整えることに感動があると、モノを超えて、その時の空気感までもが記憶されて色あせない思い出になるようだ。
   
                         



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