2017年11月20日月曜日

お洒落について

お洒落はつくづくエネルギーの要るものだと思う。

何をもってお洒落というのか、その定義は人の数だけ存在すると思うけど、
「もうお洒落なんて降りた」と思ったらお洒落ではなくなる。
特に、年齢を経て、外見が変化し始めたら昨日似合っていたものが似合わなくなる。
常に軌道修正しながら前に進む力が必要になる。

私は20代のころからアンティークジュエリーが好きだったけれども、
今、それを昔のようには着けられない。
ただの「物持ちの良い人」になってしまうからだ。
黒のタートルネックにジーンズ、そこにアンティークのリングやペンダントが似合ったのは 肌も髪もツヤツヤだったからで、艶とアンティークが持つ末枯れた味わいのギャップが面白い効果を出していたのだ。人間に末枯れた味わいが出てきたら、マッチしすぎてしまう。

自分自身を好きでいなければお洒落はできない。
社会のために身だしなみを整えるのは、マナーだ。

恋をしたときは自分を最大限に魅力的に見せたいと思うので、雑念なくお洒落になれる。
また職場やPTAで、お洒落な仲間がいると、情報交換やお洒落番長の張り合いで
自然とお洒落な人になる。
どちらも、エネルギーに満ちた人の成せる技だ。

私が自分のために、そして美のためにお洒落をする人といって一番最初に頭に浮かぶのは
ピアニストのフジコ・ヘミングさん。
今から15年くらい前になるNHKのドキュメンタリーで見せた彼女のお洒落は独特の格好良さがあった。長い海外生活にピリオドを打ち、名声を得る事もなく、細々とピアノ教師をしながら演奏活動をしていた時代の彼女だ。ボヘミアン的で、でも上質のバランスを持つ誰にも真似のできないお洒落。帽子の横に揺れる長いシャラシャラと音のなるエスニックテイストの飾りは、アルフォンス・ミュシャが描く女性の物に似ていた。
ピアニストで戦前にヨーロッパに留学していたお母さんの作った彫金のジュエリーを
大切に身に着けるフジコ。大きなアゲハチョウの羽に透かしが入った素敵な作品だった。
(あの時代、自宅で趣味で彫金をするピアニストというのも凄いが。)
私の究極の憧れはあのあたりにあるのかも、と思う。
今の私はまだ、なんとなく流行を意識してしまうし、年齢を味方につけていない。
吹っ切れていないし、迷いもある。

お洒落なんてしなくても人生は渡れる。
ジュエリーなんて持たなくても何も問題はない。
でも、どうせ生きるなら自分らしいスタイルを持ちたい。
軌道修正をかけながら、少しでも心地よく人生を歩みたい。
そう思えるのはエネルギーがある証なのだろう。
意識してミニマムなスタイルを貫くのもお洒落、デコラティブを選択するのもお洒落。
言い古された言葉だけども、やっぱりお洒落は生き方なんだと思う。






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